ローマ6章
6:1 それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。
それでは、どのように言おうか。恵みが増し加わるようになるために、罪に留まるべきだろうか。
恵みは、信仰によってその歩みが義とされることです。義によって支配し、その歩みが義に支配されて常に義となるのです。そして、永遠の命としての報いを相続するのです。(下記聖句参照)それを受けて、恵みが増し加わることになるために、罪にとどまるべきだろうかと問うていますが、罪が豊かに働くところに、信仰により恵みも遥かに凌駕して働き、義の実を結ばせます。犯した罪は赦されるし、再び信仰によって歩むならば、義の実を結ぶことができます。罪の支配を受けることがあっても、恵みがあれば、そのような中から再び恵みの偉大さを経験できます。それで、罪の働きを受ける状態に留まるべきだろうか、と。
ローマ
5:20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。
5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。
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・「罪」→「冠詞+罪:単数」すなわち、内住の罪。いわば、罪を犯させる悪い心。
6:2 決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。
決してそうなって欲しくない。罪に対して死んだ者である私たちは、どのようにしてなおもその罪の中に生きるだろうか。
それができない理由が示されていて、私たちのうちに住む罪に対して死んでいるからです。罪の中に生きることはできません。死ぬことで、一切の関わりが断たれるからです。
・「罪」→「冠詞+罪:単数」すなわち、内住の罪。
6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
それとも、あなた方は、キリスト・イエスに与るバプテスマを受けた者である私たちは皆、その方の死に与るバプテスマを受けた者であることを知らないのか。
バプテスマの意味を示すことで、私たちのあるべき状態について示しました。バプテスマは、キリストの死に与ることです。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
したがって、私たちは、死に与るバプテスマを通して、キリストと、ともに葬られた。それは、キリストが父の栄光によって死者の中からよみがえらされたように、そのようにまた、私たちも、命の新しさの中に歩むようになるためである。
死に与るバプテスマは、死んで葬られたことを意味しています。そして、死は、そこで終わりではなく、目的があります。それは、キリストが死者の中からよみがえられされたように、新しいいのちに歩むためです。新しいいのちに歩むとは、キリストの復活と同じ状態であり、内住の罪に対して死んだ者として、キリストとともに生きることです。神に対して生きた者として歩むことです。
キリストのよみがえりは、「御父の栄光による」のです。そのように、私たちを新しいいのちに歩むように変えるのは、御父の栄光によります。父は、全能の力で私たちを変えようとされるのです。
エペソ
3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
3:21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。
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その働きを通して父に栄光が帰せられるのです。
6:5 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
なぜならば、もし、一つになった者が、キリストの死と同じようになったのであれば、それだけでなく、必ずよみがえりとも同じようになる。
キリストの死と同じようになった者は、そのよみがえりとも同じようになります。私たちが死ぬことで、死との関わりを断ちます。そして、必ず、キリストのよみがえりのようになります。よみがえりの体は、罪とは全く関わりありません。もはや肉体がないのですから、肉の欲が働くこともないのです。完全な歩みができるのです。
・「一つになって」→密接に結びつく。切り離せない。ともに成長する。キリストの内住により、一つとされている。形容詞、主格、男性、複数。一つになった者が~。
6:6 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
私たちは、このことを知っています。すなわち、私たちの古い人は、罪の体が完全に機能しなくなり、私たちがもはや罪に奴隷として仕えることがないために、(キリストと)共に十字架につけられたことを。
私たちの古い人は、私たちの内に住む罪によって、罪を犯します。しかし、キリストと共に十字架につけられたことにより、その罪に支配されていた体は、機能しなくなります。罪は、体の内に存在しますが機能停止したのです。それで、もはやその罪に奴隷として仕えることがないのです。
・「(キリスト)とともに十字架につけられた」→共に刺される。
・「滅ぼされて」→何かを不活性にする。すなわち、完全に機能しないようにする。使用不能にする。
・「奴隷でなくなる」→奴隷として奉仕し、すべての個人所有権を所有者に付与すること;(比喩的に)自主権の特権を喜んで譲渡すること。
・「罪」→「冠詞+罪:単数」犯した罪でなく、体の内に住む罪。
6:7 死んだ者は、罪から解放されているのです。
なぜならば、もし、死んだ者であるならば、罪から離れ、義とされている。
死ぬことで、罪とは関わりなくなり、罪から離れ、義とされています。
・「解放されている」→「apo;前置詞。~から離れ」+義とされている。
・「罪」→「冠詞+罪:単数」
6:8 私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。
それで、もし、私たちがキリストと共に死んだのであれば、私たちはまた、私たちが必ずキリストと共に生きると信じている。
キリストとともに死んだ者は、キリストとともに生きることにもなることは、信仰によって知る事柄です。信じて従った人だけが、それを獲得します。
信じていると言ったのは、信仰により実現することであるからです。自動的に実現することではありません。神様がそれを実現してくださると信じるところに実現するのです。信者であっても、罪に対して死に、御霊によって新しく生まれた者として、キリストと共に生きることができることを信じない人もいるのです。そのようなことは、できないと考えるのですが、そのようなところに実現することはありません。
・「共に生きる」→共に生きる。共に暮らす。人生を共有する。
6:9 私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。
私たちは、知っている。死者の中からよみがえらされたキリストは、もはや死なず、死は、キリストをもはや支配しないことを。
一つの確かな事実を示し、罪に対して死に、神に対して生きることが可能であることを示したのです。
そのことについては、「知っています」と表現し、誰もが知っている事実を示しました。それは、キリストが死者の中からよみがえったことです。よみがえって死ぬことがありません。言い換えるならば、死はもはやキリストを支配しないのです。このことは、罪が死によって支配することが終わったことを表しています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
なぜならば、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に死なれたが、彼が生きているのは、神に生きている。
その理由は、キリストの死は、罪に対する死であるからです。これは、罪のための死ではありません。キリストの内にある罪に対して死なれたということです。
キリストも、肉体を持ち、欲を持っていたのです。食べ、眠るなどの欲は備わっていました。その欲のままに生きるならば、罪を犯すこともあり得るのです。しかし、その欲に働きかけ、罪を犯させる内住の罪に対して死んだのです。
ちなみに、キリストは、人となられたとき、罪を犯す可能性さえまったくないと論じることは誤りです。ここには、罪に対して死んだと記されています。
ただし、キリストの偉大さは、肉体の死を経験する以前から罪に対して関わりない者として生き、神にあって生きていたことです。
キリストの死は、ただ一度だけのことです。それは、信者に適用して、信者もただ一度死んだことを覚えさせるためです。罪の支配に舞い戻るようなことはありえないことを示すためです。
・「罪」→「冠詞+罪:単数」
6:11 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
同じように、あなたがも、キリスト・イエスにあって、一方で、罪に死んでいること、しかし、神に生きていることを論理的結論として判断せよ。
キリストと一つになっているのであれば、当然の帰結として、自分は、罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だということになります。当然そうなるとそれを認めるように教えています。すでに死んだのです。
・「認めなさい」→論理的結論と判断すること。
・「罪」→「冠詞+罪:単数」
6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。
ですから、罪が、体の欲望に従うようにと、あなたの死ぬべき体を支配するようにさせてはならない。
自分が罪に対して死んでいる者なので、体を罪に支配させてはならないのです。罪は、その欲望に従って行動するよう、体を支配します。
なお、体については、「死ぬべき体」と記されていて、その欲望はやがて消え失せるものであることが示されています。そのような消え去るもののために、それに従うことで、罪に支配されることの空しさを示しています。
・「罪」→「冠詞+罪:単数」
6:13 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
また、あなた方の手足を不義の道具として罪に提供してはならない。そうではなく、あなた方自身を、死者たちから(出て)生きている者のように、神に直ちに提供せよ、また、あなた方の手足を義の道具として神に(直ちに提供せよ)。
それとともに、手足を不義の道具として用いてはならないことです。内住の罪に従って、不義を行ってはならないのです、
むしろ、自分を神に捧げ、神の御心のままに事を行い、義の道具として用いるのです。
その私たちについては、「死者から出て生きている者」と記されています。新しいいのちに歩むようにされているということです。
・「献げる」→そばに立つ。仕えるために前に立つ。提供する。アオリスト命令形。直ちに従うことを求める命令形。
・「罪」→「冠詞+罪:単数」
6:14 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。
なぜならば、罪があなた方を支配することは決してない。なぜならば、あなた方は、律法の下にはいるのではなく、恵みの下にいるからです。
私たちが内住の罪の支配を受けて生きてはならないことがすでに前節で強く命じられていますが、その理由が示されています。はじめは、罪に対して死んだ者であるという立場について教えましたが、ここでは、罪は、私たちを支配することがないことがその理由として示されています。
罪が支配することがない理由がさらに記されていて、それは、律法の下にではなく、恵みの下にあるからです。
ローマ
4:13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。
4:14 もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。
4:15 実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。
4:16 そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。
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律法の下にないというのは、次節との関係で、律法によって違反者とされることがないことを言っています。信仰によって義とされるという恵みの下にいます。その罪は完全に赦されていますし、信仰によって歩むことが義とされます。信仰によって歩むことで、罪の支配を受けないのです。
・「罪」→「冠詞+罪:単数」
6:15 では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。
では、どうなのか。私たちは、律法の下にいるのではなく、恵みの下にいるのだから、罪を犯そうとなるのか。決してそんなことにはならない。
律法の下にはなく、恵みの下にあることは、信仰によって神の御心を行う者とされていて、律法を行う者ではない事を言っています。もう律法の規定は、一切関わりないのです。律法の規定が一切効力を持たないのであれば、律法に背いて罪を犯してもいいことになります。それで、罪を犯そうかとなるのか、と問うています。決してそんなことにはならないのです。
・「ありません」→なる。引き起こす。実現する。
6:16 あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。
あなた方は、次のことを知らないのですか。あなた方が自分自身を奴隷として提供し服従するに至るその相手、すなわち、あなた方が従う相手にあなた方は奴隷となる。死に至る罪の奴隷なのか、それとも、義に至る服従の奴隷である。
信じて歩む信者でも、罪に従うならば、罪の奴隷となります。罪の支配を受け、罪を犯し、神の前には、実を結ぶことなく、命はないのです。御国でも報いもありません。それが死です。一方で、神に服従するならば、義に至ります。その歩みが義とされ、報いを受けるのです。信者は、実際に信仰により、服従するという歩みがなければ、義に至ることはないのです。イエス様を信じたので、自動的にその歩みが義とされるということではありません。
確かに、すべての罪は、赦されています。また、律法の規定は全く関わりないものとなっています。信仰によって歩んで義とされるからです。それが信仰によって与えられる恵みです。しかし、私たち自身を何に捧げているかによって捧げる相手の奴隷になっていることをわきまえる必要があります。罪に服従するならば、罪の奴隷なのです。その結果、死に至ります。この死は、神の前に実を結ぶことのないことを言っています。御国において報いがないのです。
その一方で、服従の奴隷になるならば、義に至ります。すなわち、義の実を結ぶのです。なお、服従とは、神に対する服従ですが、御言葉に対する服従のことです。次節では、「教えの規範」と記されています。
・「献げる」→そばに立つ。仕えるために前に立つ。提供する。
6:17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、
それで、神に感謝する。なぜならば、あなた方は、罪の奴隷であり続けていた。しかし、あなた方は、心から服従し、教えの規範に引き渡すに至り、
・「罪」→「冠詞+罪:単数」
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となりました。
それで、罪から解放され、義の奴隷となったからである。
彼は、現状のローマの信者について感謝しました。彼らの聖められている状態について感謝したのです。信じた初めから義の奴隷であったのではなく、罪の奴隷でいたのです。そこから開放されたのは、教えの規範に心から服従したからです。義の実を結ぶ奴隷とされました。
なお、「かつて」は、未信者であったときのことではありません。
6:19 あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。
あなた方の肉の弱さのゆえに人間として語ります。あなた方は、実に、あなた方の手足を奴隷として汚れと不法に提供し、不法に至っていたように、そのように、今、即座に、あなた方の手足を奴隷として義に提供し、聖化に至りなさい。
人間として語りますと前置きしたのは、信者である彼らは、以前は、肉の弱さにより、不法の奴隷であり、不法に至っていたのです。しかし、そのようなことは、信者として決してあってはならない状態であるのです。しかし、現実としてそのようなことがあるので、今、即座に義の実を結ぶため、義に従う者となることを命じたのです。
ここでは、「義」は、「罪」と対比されていて、罪が私たちのうちに住み着いていて、不法を行わせるように働くように、義は、私たちのうちに住み着いていて、義を行わせます。具体的には、御霊によって御心を行う心の中の働きです。
なお、肉によって歩むことをしかたないことのように考えるのは誤りです。自分には肉があるから、聖書の教えのように神の御心に適った歩みをすることができないと聞くことがありますが、それは謙遜でもなんでもありません。
・「聖潔」→聖化。信者が主によって徐々にその姿へと変容していくこと。
・「進みなさい」→提供する。後半は、アオリスト命令形で、直ちに従うことを命じています。「nyn:今。即座に。副詞」と合わせて、直ちに服従することが求められています。
6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。
実際、あなた方は、罪の奴隷であり続けたとき、義に(対して)自由であり続けた。
罪の奴隷として歩んでいるとき、義については、自由でした。全く拘束されず、関係のないものとして歩んでいたのです。
・「罪」→「冠詞+罪:単数」
6:21 ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。
それで、今は恥じているそのようなところで、あなたは何か実を得ていたのか。それで、それらの終わりは死である。
それらの終わりは、死です。「終わり」という表現は、将来獲得することを表しています。信者に対する評価は、キリストの裁きの座で行われます。
6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。
しかし、今は、罪から解放されていて、そして、神に(対して)奴隷とされていて、聖化に至る実を得ている。それで、その終わりは、永遠の命である。
しかし、今は、罪から開放されて神の奴隷として歩んでいます。キリストの裁きを受け、永遠の命としての報いを受けるのです。ここにも、永遠の命は、将来受けるものとして示されています。火の池から救われる救いの立場であるならば、すでに得ているのです。このように将来受けるものとして示されている「永遠の命」は、報いを受けることです。
・「罪」→「冠詞+罪:単数」
6:23 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
実に、罪の報酬は、死である。しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠の命である。
内住の罪の報酬は、死です。それは、義の実を結ばないので、報いがないことを表しています。「報酬」と表現されているのは、必ず対価として払われることを意味しています。
しかし、永遠の命は、賜物です。神の決めた通りのものです。永遠の命は、主イエス・キリストの内にあります。私たちの命は、キリストにあります。キリストが現れるとき現れるのです。栄光の内に現れるのであり、私たちが栄光を受けるのです。
なお、この節は、未信者のための福音として引用されることが多いですが、冒頭の罪は、文脈からも、原語が単数定冠詞付きであることを考えても、内住の罪のことです。人が罪に対する裁きを受けるのは、犯した罪に対してです。この節は、罪の裁きが永遠の滅びであるという意味で記されているのではありません。
さらに、永遠の命は、ここでは、義の実を結ぶことでいただくことができる報いのことで、御国で受ける資産のことです。地上でキリストと一つになって歩むことで経験できる命のことも含みます。
コロサイ
3:1 こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
3:2 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
3:3 あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。
3:4 あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。
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キリストが現れる時、私たちは評価の結果としての栄光を受けることになります。
・「罪」→「冠詞+罪:単数」